Gyakutaniメモ

生物学と心理学の勉強メモ・本の感想

【感想】バイオインフォマティクスを用いた研究開発のポイントと実例(2)

第2章 違いを見つける 

 

 本章は、情報エントロピーおよび細胞の脱分化についての解説が充実しており、本書でも力の入っている章だと感じます。情報エントロピーは、第一章で、トランスクリプトームデータを取る際の薬剤濃度を決定するためのパラメータでした。 

 

 まず、細胞の脱分化の話になります*1。個体中の増殖を止めた細胞を培養すると形態の似通った細胞群が増殖してきます。脱分化仮説は、細胞が培養環境に移されると生体内での特徴を失って始原形質に戻ることで増殖するという説明をこの現象に与えます。これに対し、培養環境に移された細胞群から取り出された細胞の内、環境に適合したものが増殖することで同じ結果を与えるという選択仮説も存在します。これまでに、抗肝臓血清と抗培養細胞血清に対する肝臓の初代培養の結果から、選択仮説が取られていました*2 *3

 

  著者は、選択仮説の検証で、培養後直ちに増殖する細胞を使ったことを問題視します*4細胞集団が変化してしまうため、元の集団の変化を測定できないし、細胞周期の影響もあるからです。著者は培養後すぐには増殖しない(多分カイコガの)細胞の培養前後のトランスクリプトームを比較しました*5結果、培養後は遺伝子発現の偏りが緩和されており、脱分化説を支持する結果となりました。この「遺伝子発現の偏り」を定量する指標となったのが、情報エントロピーでした。NGSではサンプルごとにリード数が異なりますが、数百キロリードから数百メガリードの範囲では、情報エントロピーに影響しなかったため(モンテカルロ法でランダムにリードを削りながら情報エントロピーの変化を見て検証)、数メガリードあればトランスクリプトームの情報エントロピーを正しく推定できるとしたようです*6

 そして、公共データベース上のトランスクリプトームの情報エントロピーを計算したところ、カビや昆虫の細胞は、哺乳類や酵母の細胞より不均一なトランスクリプトームを示していました*7。また、ヒトやハエにおいても培養細胞は個体中の細胞より情報エントロピーの大きなトランスクリプトームを示していました。選択説が正しければ、情報エントロピーは小さくなるはずです。 

 

 次に、生理活性物質の刺激による再分化の話になります。著者は、様々な濃度の親水性または疎水性の生理活性物質*8を添加した培地で細胞を培養しました。すると、0.25 μM1 μMの間を境に、エントロピーは二値に分かれましたた。もしこの境界が線形に埋められるような形(全体としてはシグモイド曲線のような形)でなければ、トランスクリプトームのエントロピーは双極安定な可能性があります*9。双極安定ならば、ヒステリシスを示すはずなので、生理活性物質の濃度を高くしてから低くする条件と、ずっと低い条件のエントロピーを比較しました*10。そして、エントロピーがヒステリシスを示したという結果が紹介されます。

 この結果でヒステリシスを主張するのは微妙でしょう。根拠となる図が最後に登場しますが、文章から読者が想像するものとやや異なると思います(x軸方向にずれた二つのヘビサイド関数のようなグラフを想像した)。0 mMから0.25 mMにした場合と1 mMから0.25 mMにした場合で有意な差があるようには見えません。定量尺度の重要性を説明しながらなぜ統計処理を行わないのでしょうか。本文中では「比較対象にした」と述べている単に0.25 mMで培養した際のデータが無いのも謎です。単に1 mMで培養した際のデータも必要でしょうが、本文にも図にも見当たりません*11

 ところで、1 mMで培養すると再分化し、その後0 mMにするとエントロピーが大きくなっていますが、これは再脱分化が起きているということになるのでしょうか。また、再分化はどのようにして選択と区別するのでしょうか。また、DNA配列についても同様にエントロピー増大しているのかも気になります。 

 

 著者は、発現変動遺伝子比較解析には、情報エントロピーが異なる値域(安定極)に収まるトランスクリプトーム同士を比較すべきでないと指摘します。異なる安定極にある細胞は、異なる状態(分化の度合いでしょうか)にあるため、発現遺伝子を比較できないという主張です。そして情報エントロピーが、生体内でありえないような高濃度の物質で処理した条件を不適切だと判断する定量尺度になると言います。

 過去の研究を振り返ってこれを満たしていないものもあるのだとしたら重要な指摘でしょう。第一章では、同様なエントロピーを示す範囲内で薬剤濃度を決定したので、発現変動遺伝子が数百にならずに数十に収まったということでしょうか。数百以上の遺伝子が候補に挙がってしまう理由が安定極の違いだとしたら、そのような論文は全て不適切ということでしょうか。しかし、いったいトランスクリプトームの情報エントロピーの安定極が切り替わるとき、細胞の中では何が起きているのでしょう。 

 

 最後に、バイオインフォマティクスにおける情報エントロピーの使い方について複数挙げられています。 

(1)定量的な分化マーカーとしての情報エントロピー。質的な遺伝子マーカーの発現からある細胞が分化しているはずなのに、機能しない場合があるそうだ。その場合、本当に分化した細胞と比較してトランスクリプトームの情報エントロピーが大きくなっているかもしれない。 

(2)細胞の培養経過の定量マーカー。同じ時間細胞を培養しても、品質が異なる場合がある。トランスクリプトームの情報エントロピーが揃うように培養時間を調節することで、品質を揃えられる。物質生産用の細胞などに応用できる。 

(3)遺伝子発現ネットワーク解析におけるサンプルの選択マーカー。これはトランスクリプトームのではなく、遺伝子発現ネットワークのエッジ(遺伝子間の相関係数)の情報エントロピーである。遺伝子の共発現ネットワークを推定するには、様々な摂動に対するトランスクリプトームを収集すればよい。しかし摂動が大きすぎると遺伝子ネットワーク自体が切り替わってしまい、複数のネットワークが混在してしまって推定ができないという問題がある。複数のネットワークが混在すると、共発現するエッジが混じるので、相関係数エントロピーは大きくなる。しかし、混じり具合に双極性は無いだろうから、どのぐらいエントロピーが大きいと危険だとかまでは言えないのかもしれない。具体的にどのサンプルが混じり物だとかも定量的な指標ができると良さそうだ。 

 

 その後少し話がそれて、タンパク質が修飾されて酵素として機能し、さらに代謝物が蓄積されてメタボローム測定で検出可能になるまでのタイムラグを考慮すると、メタボロームはトランスクリプトームと同時には取れないという点が指摘されます。そこで、複数の時刻でメタボロームとトランスクリプトームを取り、酵素遺伝子の発現量と基質ー代謝物の量比の符号の一致数が多い時間を採用すべきであると主張します。

 

 また、発現量が0であった遺伝子はトランスクリプトームの情報エントロピーの値に影響を与えない(そのような遺伝子は無かったことにされる)という問題も指摘します。その解決策としてコモロゴロフ複雑性が挙げられています。 

 

 いくつか疑問が残った章ですが、一度は棄却されていた脱分化説を直感から検証したのは流石であり、ウェットとドライの両方を自分で作業する著者ならではでしょう。さらに、トランスクリプトームの情報エントロピーの生物学的意義の解説は貴重であり、多くの研究者の参考となるのではないでしょうか。この章のために本書を読む意義はあると思います。逆に本章があれば第1章は不要だったような気もします。あと、第1章もそうでしたが、ウェット実験を説明する概略図が無いのは不親切です。図は文中の誤表記もカバーできます。 

 

 

*1:Wikipediaの「脱分化」の項目は、著者が作成、編集したと考えられます。

*2:このあたりは図が無いので理解に苦労しました。「そして、抗培養血清から肝臓以外の組織に吸着する抗体を除いた血清、これはこの動物の肝臓以外の抗原ほぼ全てに結合すると思われるが」という文は、何度か読み返しても分かりませんでした。

*3:ここで、洞窟に移住した魚の退色と失明が選択ではなく遺伝的浮動であるとQTL解析で結論付けた2007年のProtasらの研究が引用されています。 

*4:選択仮説の検証実験では培養期間が一週間でしたが、これらが不死化してセルラインになるとは言い切れないそうです。

*5:ここで、遺伝子発現量解析におけるマイクロアレイに対するNGSの利点(ダイナミックレンジの大きさ)が指摘されています。他にも、未知配列の検出など、NGSの方が遺伝子発現量解析において優れた点が多くありそうです。業界的にマイクロアレイはもうあまり使われていないのでしょうか。問題はコスト面かな。

*6:このあたりで、「plog(p)が0<p<1/eの範囲で単調増加」という趣旨の文が繰り返されますが、マイナス記号をつけて-plog2(p)と読み換える必要がありそうです(元論文でも「plog(p)が単調増加」になっています)。

*7:約380,000(そんなに少なかったっけ)の既知の生物種の半数を昆虫が占めている(進化的に繁栄している)理由の考察として、トランスクリプトームの特殊化(不均一化)による器官の分業による効率化を挙げていますが、器官間の分業が生物種を増やすことの論理がよく分かりませんでした。器官分業化が種分化を進めるメカニズムが知られているのであれば非常に気になるところです。

*8:フェノバルビタールとシス-ペルメトリン

*9:実際には多極安定でしょうか。培養前のエントロピーが再分化後よりも極端に低いこともそれを示す気がします。

*10:なお、遅延をヒステリシスと勘違いしないように、エントロピー変化の開始と安定にかかる時間を事前に調べておく必要があるようです。

*11:他にもμMが突然mMになっていたり、単位の記法が誤っているなど気になる点が多いです。